双極II型障害と生きる いつも上を見上げて 

うつ→双極II型障害と闘いながら社会人やってます。時々ズッコケますが何とかやってます。この病気を一人でも多くの人に知ってもらいたいです。

明治末期 日露戦争終結から韓国併合

まえがき

日本では戦争について考える時期、また韓国では「復光節」という独立記念日にこのような話題を載せるのはどうか?と思ったのだが、この時期でないと逆に考えないのではないか?と思ったのと、ここを飛ばしてしまうと今の日本が置かれている状況が理解できないので書いておこうと思いました。

そこでこのトピックについて賛否どちらかの意見を持たれるかに関してはノーコメントとさせていただきます。

ただ、ぼくとしては現時点で明らかにされている事実をのみ書いていきたいと思います。

日露戦争終結

明治38年(1905年)、日本はアメリカ合衆国セオドア・ルーズベルト大統領の仲介のもと、一年前から戦闘状態にあったロシア帝国講和条約を結び(ポーツマス条約)、日露戦争が集結した。

その結果日本は以下の権利を獲得した。

だが国民が熱望していた賠償金の獲得はできなかった

ここでこのテーマで前回の記事に書いた「国民」というものがだんだん変貌し始める。それは国家レベルでものを考えることが出来ない「大衆」というものへの変貌である。

彼らはこう主張した。戦いに勝利したのだからもっと相手に要求せよ。勝利の値段が安すぎる。さもなくば戦争を継続せよ!と。

そしてついに日比谷焼打事件へと発展し、国内で初めての戒厳令(警察に代わり軍が治安維持に当たる命令)が発令された。

しかし日本の経済的、軍事的レベルはすでに限界に達していた。

もともと日本の政府、軍人の中でロシア相手に完全勝利を収める事ができると思っていた人間は一人もいなかった。普通にやると完敗する。うまくやっても五分五分。そこをなんとか知恵を絞って6:4の判定勝ちに持っていき、その時点でどこか第三者に相撲で言う行司として仲立ちしてもらう、という筋書きだった。

ではなぜ国民、もとい大衆は激怒したのか。

もともと国民はこの「国家の台所事情」を知らなかった。それはそうである。国民に知らせてしまえば当然国内のロシア諜報員に知られることとなり、ロシアは戦争終結どころか逆に戦争を長引かせ日本がみずから干上がるのを待てばいいだけになる。どこの国の政府がそんなことを国民に知らせるだろうか?

日韓併合

時は流れて明治43年(1910年)、韓国が日本に併合される。

この件については特に韓国の方々にとって癪に障る非常にデリケートな問題であり、その是非をここで問うことはしないが、以下の「事実」だけは明らかにしておきたい。

朝鮮半島はその地理的形状(地図を見るとわかるのだが朝鮮半島は日本列島の背中に刃を突きつけた形をしている。)から、日本にとってここを第三国に支配されると、安全保障に関わる問題となる。それゆえ朝鮮半島の独立と安定は日本にとって決して譲れない一点であった。

もともと国家存亡の危機をかけてロシアと戦ったのもロシアの本能的な南下政策から朝鮮半島を守るためであった。もしロシアがあのまま南下を続けていたら日本は全部とは言わないまでも朝鮮半島と北海道はロシア領となり、対馬租借地になっていただろう。

今回はロシアを撃退することは出来たものの、ロシアという国家の性質から再び朝鮮半島に南下してくることは火を見るより明らかだった。

日本は朝鮮半島の政情の安定を目指すが、残念ながら当時の李氏朝鮮は政権末期の汚職と腐敗が支配する状況であった。以下は当時の朝鮮の政情について外国人の目から見た様子である。

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
イザベラ・バード、『朝鮮紀行講談社講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f

そのような当時の大韓帝国政府に安定した政治を行えるはずもなく、仕方なく日本は「日本による朝鮮半島の自治化による政情の安定」を目指し改革に日本が介入するための朝鮮総督府が設置される。これは現代の我々の目で見れば「内政干渉」である。しかしながら現代の状況から当時の政治家の判断の是非を言うのはあまりにも彼らにとって酷であろう。

当時の日本には海外に帝国主義による植民地を持とう、という野心は一部の軍人を除きなかった。そもそも植民地というのは国内で売りさばけなくなり余った製品を売る市場のために獲得されていくのである。当時の日本にそんな余裕のある商品はせいぜいあったとしてもタオルぐらいのもので、タオルのために子々孫々まで恨みを買うような韓国が主張するほどの「帝国主義的」行動に出るわけがなかった。

話を元に戻すが、ここで注目すべきは朝鮮総督府の初代総督であった伊藤博文韓国併合に対して以下のように述べている。

「日本にとっても韓国にとっても百害あって一利なし。日本にとって朝鮮の併合は莫大な金と労力がかかるのみならず日本人が国内に他国人を受け入れることの難しさを鑑みるに日本人の民度を落とすのみ。むしろ韓国の近代化主義グループ(一進会のことだと思う。)と手を結びインフラ整備、識字率の向上によって近代国家へ生まれ変わらせるべき。」

最も韓国併合に対して反対の態度を取っていた伊藤が「韓国独立の英雄」とされている安重根に暗殺されたのは歴史の皮肉としか言いようがない。

ちなみに伊藤は今わの際に自分を撃ったのが韓国人だと知ると、

「俺を撃つとはバカなことをやったものだ・・・。」

と言ったという。

これ以降、韓国の併合は伊藤の願った方向と違った方向に進むこととなる。

 

(おわり 次回は「はいからさんが通る」の時代 大正 です。)