双極性障害2型と生きる いつも上を見上げて 

うつ→双極性障害2型と闘いながら社会人やってます。時々ズッコケますが何とかやってます。この病気を一人でも多くの人に知ってもらいたいです。

江戸から「東京」へ。東京遷都裏話(京都の方には申し訳ないですが・・・。)

概略

東京。言わずもがな日本の首都であり、経済的にはロンドン、ニューヨークとともに世界の三大金融市場の一つであり、その影響は世界的なものに及ぶ。

また人口は1,200万人を超え、都市としての規模は世界一を誇る。

江戸の歴史

もともと東京は御存知の通り「江戸」という名前であった。これは「湿地帯」という意味があり、その名の通り徳川家康豊臣秀吉からこの土地を与えられた時、まさに一面の湿地帯だったという。これは秀吉の徳川の力を削ぐための政策であった。

しかし世が豊臣から徳川の世となり、家康は諸大名に命じてこの地の土地改良を次々と進めていった。そして家康以降の将軍たちも各地(特に大坂)から商人たちを移住させた。さらに三代家光の時代には参勤交代の制度が整えられ、これによって各藩の大名屋敷が整備され、また東海道を始めとする主な幹線街道が発達し、一大消費都市として発展するに至る。18世紀末には人口は100万人を超え、世界一の都市となっていた。

明治維新と遷都問題

さて、時は流れて幕末。動乱の時代を経て明治元年大政奉還が行われ、王政復古の大号令が発布される。しかしここで新政府には大きな問題があった。

それは当時の都である京都が政治を行うには適していなかったということである。

京都は794年頃に遷都されて以来、大きな変化がなく、さらに政治の中心は源頼朝以来700年の間京都から移っていたため、それに適した都市としての形がなかったのである。

「どうも、手狭すぎる。」

新政府、特に維新の立役者の一人である大久保利通は不満を抱いていた。

なぜならこれから新政府は諸外国の大使、使節団などを受け入れるなどの今までになかった機能が求められる。しかしそれにふさわしい施設が京都には存在しなかった。

また、何より恐れたのは外国の大使館を設置した際、京都の市民たちの間に紛れて「攘夷」の意識を持つ輩がまだ沢山存在した。それらの輩が外国人に何かをしでかしたらたちまち日本は信用を失うばかりか、下手をすると侵略される恐れもあった。それだけは絶対に防がなければならない。

「出来るだけ早いうちに新しい都を遷都せねば。」

遷都は急務となった。

遷都の候補地

様々な候補地があげられた。司馬遼太郎氏の小説によると、

  • 奈良
  • 大和
  • 大阪

があげられていたらしい。しかし奈良と大和はあたかも神話的、かつ時代に合わないとして却下された。

最後に残ったのは大阪であった。

大阪は豊臣家の時代から町並みが管理され、江戸時代を通じて「天下の台所」と呼ばれる経済の活発な場所であった。当然ここを新しい首都にしよう、と考えるのは当然かも知れない。

石文

大久保の考えがその方向で固まりつつある時、大久保の家にある日、石文(石ころを手紙でくるんで家に投げ込んだもの)が届いた。投げ主は「江戸寒士(江戸の貧乏侍)」とあった。

その中にはこう書いてあった。

新しい首都は江戸にすべきです。大阪は秀吉公の時代から経済の都として栄えており、今のままでも将来十分に発展するでしょう。しかし江戸はもし今までの政治機能を奪われてしまったらたちまちのうちにもとの寒村に戻ってしまいます。

また、江戸城は帝の御所としてふさわしく、さらに東海道中山道を始めとする交通の中心でもあります。

そして何より重要なのは旧旗本、大名屋敷が昔から整備されており、ここを各省庁、役人の住居、そして外国の使節のための場所としてコストを抑えて整備することができます。

大久保の決断

おそらく大久保はこの石文だけで決断したのではないだろう。思うに当時の状況として東北諸藩はまだ新政府の威光に従っているとはいえず睨みを効かせる必要があった。そのためにも明治帝の江戸行幸天皇のご出張)は急務と考えられていた。

しかしこの石文は大久保の決断を促す結果になったことは間違いないと思う。

手の込んだ遷都

ここで問題があった。それは京都からの遷都を嫌がる公家衆や市民をどうするか?ということである。かつて平清盛が強引に福原遷都を行い混乱をもたらし平家没落のきっかけとなった。それを考えると遷都は慎重に行わなければならない。

「江戸」から「東京」へと改名

そこで三条実美岩倉具視も参加してまず江戸を「東京」という名称に改めた。つまり「京都の東日本版」ということで、京都では即位の礼大嘗祭等の儀式的なもの、そして公務は東京でおこなう、という形に改めた。ちょうどロシア帝国サンクトペテルブルクとモスクワの関係のようなものである。(しかしこのことは公家衆や京都市民には内密であった。)

二度に渡る天皇の「行幸

それでも人心を安心させるため、明治元年明治天皇が東京に「行幸」(いわゆる天皇のご出張)される。その後明治帝は京都に還幸(天皇が出張からお戻りになられること)されたが、その際に起こった公家衆や市民の反対運動に対して、「帝は京都をいつも心に覚えておられる。戻ってこないことはない。」というお触れを出して、人心の安定をはかった。

おそらく現代でも一部の京都市民が言う「天皇はんは東京に出張に行っておられるんや。」というのはここから来ているのかもしれない。

しかし京都への「還幸」は戊辰戦争の影響もあって延期される。明治3年に京都に天皇が戻る際には、「還幸」ではなく、「行幸」と改められた。

遷都の裏役者

ところで大久保邸に石文を投げたのは誰か?しばらく謎だったが、ある日大久保が日本の近代郵便制度の父と呼ばれる前島密と郵便制度について話をしていた際にたまたまこの話題が出た。そのときに前島が、

「実はご無礼ながら閣下のご自宅に石文を投げ入れたのは自分でございます。」

と答えた。

前島がその本人だったかどうかはわからないが、結構信憑性が高く(大久保が残していた石文の筆跡が前島のものである、等。)興味深い話である。

 

(おわり)