双極II型障害と生きる いつも上を見上げて 

うつ→双極II型障害と闘いながら社会人やってます。時々ズッコケますが何とかやってます。この病気を一人でも多くの人に知ってもらいたいです。

京都が空襲されなかった理由

ここのところ京都の話が続いているが、もう少しお付き合い願いたい。個人的に好きな街、というのもあるが、歴史のある街だけにどうしてもトピックが多い街なもので・・・。

先日、京都の一見さんお断りのお店で美味しい湯豆腐を頂いた記事を書いた。そこで女将さんが話してくれたのが、

「この店も先の戦で焼けましてなあ。」

そこでぼくが、「あれ?京都は戦災に遭わなかったのでは?」

するとホスト会社のM菱電機の方が、

「いや、マイクさん、京都で『先の戦』というと『応仁の乱(1467年〜1477年)』のことなんですよ。」と笑いながら教えてくれた。

京都は爆撃されない

京都は第二次世界大戦で一度も米軍による空襲を受けなかった。これは事実である。そしてその理由として、

アメリカは日本の歴史的文化財を大切に思っているから京都は空襲されなかった。

という「都市伝説」が信じられている。

これは2割は当たっている。しかし100%正しい事実ではない。

ではなぜ京都は空襲を受けなかったのか?これは違った視点から見てみる必要がある。

マンハッタン計画

1942年10月、アメリカで極秘かつ大規模な国家プロジェクトが開始された。

その名前は「マンハッタン計画」アメリカ国内で大小20箇所近くの研究施設、協力機関が設置され、当時の金額で約21億ドル(現在のレートで約8.5兆円)が投じられた国家プロジェクトだった。

マンハッタン計画とは何を目的とするプロジェクトだったか?それは

ウラン235核分裂反応を利用した新型爆弾の開発プロジェクト」

つまり、原子爆弾の開発プロジェクトだった。

各国の原爆開発計画

実は原子爆弾の開発を進めていたのはアメリカだけではなかった。真っ先に手を付けたのはナチスドイツだった。それに危機感を持ったアルバート・アインシュタインが当時のアメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトナチスに対抗するために原爆の開発を進言した。

また意外と知られていないが、日本でも理化学研究所の仁科秀雄が中心になって開発を進めていた。

しかしこれら枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)は戦局の悪化にともない開発計画は頓挫するに至る。

原爆投下目標都市の条件

一方、マンハッタン計画は政治的な紆余曲折はあったものの、1945年6月ごろには最初の原爆が完成するめどが立っていた。

そこでアメリカは原爆投下の相手を降伏が時間の問題だったドイツではなく、日本に決定した。そして投下目標都市の条件を以下のように決定した。

  • 都市の大きさが直径3マイル(約5キロ)を超える都市であること。
  • 人口が多い都市であり大小の軍需産業が点在していること。
  • 起伏がなく、一発で完全に破壊可能であること。
  • 投下後に爆発の威力が測定可能であること。

これらを満たす都市として、以下の都市が選定された。

  • 第一目標:広島
  • 第二目標:小倉
  • 第三目標:京都
  • 第四目標:新潟

しかし第四目標の新潟はB29の基地であるマリアナ諸島テニアン島から遠すぎるという意見が上がり、代わりに長崎が選ばれた。

そして上記の都市に対する爆撃は厳禁された。

原爆投下に対するアメリカ国内での議論

一方、アメリカ国内では日本への原爆投下に対してその必要性を疑問視する声が上がり始めた。理由はもし原爆を一般市民に対して使用した場合、アメリカに対する道義上の非難が世界中から浴びせられる可能性があり、これは戦後、世界のリーダーを目指すアメリカにとって不利益以外の何物にもならない、というものだった。

また、原爆投下は無警告で行われることになっていたが、これに対しても同様の理由で反対する人々がいた。

そんな中で計画に一部変更が加えられた。

京都が原爆投下目標から除外

当時の陸軍長官だったスチムソンが、「日本人にとって心の拠り所となっている京都に原爆を投下すると、戦後の(アメリカによる)対日占領政策がうまくいかなくなり、むしろソ連に日本人を接近させる可能性があるため却下すべきである。」という意見を提出した。

これを受けて京都の扱いをどうするかについて議論が行われた。戦後の対日占領政策への悪影響を考える反対派と、京都は町並みが碁盤目であり、人口100万を超える大都市であり、さらに盆地であり原爆の威力測定データを収集するには理想的である、という賛成派が激しく争い、結論も二転三転したが、最終的に目標から除外されることとなった。

しかし、京都への爆撃禁止命令はそのまま維持されることとなった。

その後

しかしながら、アメリカの「無警告による一般市民への原爆の使用」は変更されることはなかった。そして1945年8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。

この二発の原爆による被害者は約27万人。これは偶然にも、アメリカが原爆使用の正当化として使っている日本本土決戦での予想される連合軍の死傷者の数であった。

 

(おわり)